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​お客様の声を反映し時代の変化に対応

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数ある駅弁の中でも群を抜いて有名な、群馬県横川駅の“ 峠の釡めし”。お釡の形をした容器が印象的なこの駅弁を提供する荻野屋は、2020年に135周年を迎えた。それだけでも長い歴史だが、弁当業を始める前は、碓う 氷すい峠とうげにある霧きり積づみ温泉で、旅館を営んでいたという。そこから数えると150年近い歴史を持つ同社。宿場町の衰退、新幹線開通による路線の廃線、そしてコロナ禍と、多くの危機に見舞われながらも歴史を紡いできた同社に、その歴史と秘訣を聞いた。

ピンチとチャンスの繰り返しの歴史
群馬から長野に抜ける碓氷峠は、昔から交通の難所として知られていた。峠には通常の機関車では登れない急勾配があり、横川駅から軽井沢駅間を走る列車は、1997年に長野新幹線開通と共に廃線になるまで続いた。当初は歯車をかみ合わせて急勾配を上るアプト式列車を連結させて走らせていた。その連結に要する長めの停車時間に売られるようになったのが、現在でも全国的知名度を誇る駅弁、“峠の釜めし”だ。製造販売する荻野屋は、1885年、碓氷峠の麓の横川駅開業と共に駅弁業を始めた。最初の駅弁は、おむすびと漬け物のセットだったという。1958年に峠の釜めしが誕生するまでの荻野屋の弁当は、旬のものを取り入れた幕の内弁当が主だった。
「列車が連結のために停車する時間を利用して販売するスタイルでしたが、なかなか売れずに苦労したと聞きます」。
同社の歴史をこう語るのは、六代目、髙見澤志和社長だ。
荻野屋のある横川駅は、高崎と軽井沢というターミナル駅の間にある。観光客の多くは、そのどちらかで食事をとることが多く、横川で駅弁を買う人は少なかったのだ。
「ただ、崎陽軒のシウマイ弁当など有名な駅弁はその時すでにあり、1日何千個も売れていた。
当時の社長であった祖母は、『売れない理由は商品力にあるのでは』と考え、駅のホームで弁当を売りながらお客様の声を聞き、開発のヒントを探っていました」。
峠の釜めしのアイデアは、冷えたお弁当を食べていた人の「温かいものが食べたい」という声と、それを実現できる容器が出合った時に生まれた。
「実は偶然の出合いでした。お茶やそばつゆを入れる陶器を製造販売している取引先が、他社で売れなかった小さな釜型の器を“何かに使えないか”と持ち込んだのです。祖母は一目見て“これだ!”と思ったらしく、開発中の弁当が売れるかどうかわからないうちから、数千個の在庫を買い占めました。当時の経営状態からすれば、思い切ったチャレンジだったはずです」。
お客様に支持される良い品をつくることができれば必ず売れる——。その信念により生まれたのが、保温性の高い陶器の器に入った、出来立ての峠の釜めしだった。



常に先を見て機を逃さない
だが、発売当初、峠の釜めしは、ほとんど売れなかった。
「売れて1日30個ほど。会社の経営を改善できるような個数ではありませんでした」。
それが、雑誌に小さな紹介記事が掲載された途端、販売員の元に人だかりができるほどの人気商品になった。
電子レンジなどない時代、弁当といえば、冷たいのが当たり前。だが、峠の釜めしは、出来立てを提供できるように列車の到着時間に合わせてつくり、食べている間中温かさが保たれるよう、保温性の高い陶器に入れて提供。旅の思い出として、食べた後の器を持ち帰ることができるのも旅行客には好評だった。「お弁当は冷たいもの」というそれまでの常識を打ち破る発想力と、お客様の要望に応えたいという情熱が、60年たった今でも通用するロングセラーを生み出したのだ。
ところで、荻野屋は1885年を創業としているが、それ以前は、碓氷峠にある霧積温泉で旅館を営んでいた。軽井沢が開発される前は、政府の要人や文豪らがこぞって訪れる避暑地だった場所だ。江戸時代から関所の手前の宿場町として栄えたが、明治となり関所が撤廃されたことで、少しずつ利用客が減っていた。
「このままではいずれ立ち行かなくなるとの危惧を抱き始めていた時、宿泊していた明治政府の要人から、鉄道開通の情報を聞いたんです。それで、横川駅の目の前に居を移し、旅館をやりながら弁当業を始めたのが今の荻野屋の第一歩でした」。
変革を恐れず一歩踏み出す勇気が、同社の基礎をつくったともいえるエピソードだ。


受け継ぐものと変革と
「荻野屋の歴史はピンチとチャンスの繰り返しでした」。
同社の歴史を、髙見澤氏はこう振り返る。
「実は、家業を継ぐつもりはなかったんです。子どもの頃から『釜めし屋の息子』と言われるのが嫌で、父とも性格が合わない。経営に興味はありましたが、別のことをやりたいと思っていました」。
地元では「髙見澤といえば荻野屋、荻野屋といえば“峠の釜めし”」と、老舗の看板がついてまわった。髙見澤氏は、自分そのものよりもまずその看板を見られてしまうことが嫌だった。誰もが知っている有名店に生まれた者ならではの苦悩だろう。
事態が急変したのは2003年、大学卒業後、イギリスに留学している最中だった。先代社長であった父が、研修旅行中の事故で亡くなったと知らせを受けたのだ。
「母から電話があった時、『自分が継がないといけない』と思ったことを覚えています」。
弟は大学生になったばかり。ほかに適任もいない。ほんの少し前に実家に返った時、父から「継ぐのはお前しかいない」と言われたことも耳に残っていた。こうして髙見澤氏は荻野屋に入社、会社の舵取りを担うことになった。
「祖母の代で生まれた釜めしは、父の代ではドライブインとして発展し、観光のお客様に利用してもらえる仕組みへと変化していました」。


負の遺産を粛々と返済
髙見澤氏が入社した03年は、ITバブルが崩壊し、日本全体の景気が落ち込んでいる時。荻野屋の売り上げは、1998年のピーク時から減少傾向にあったものの、店舗にはお客様が大勢いて、利益も出ている。店をみている限り何の問題もなさそうだった。だが、拡大路線を続けていた会社の借入金は、莫大なものになっていた。
本当に返せるのか——。髙見澤氏は、入社して初めて財務諸表を確認し、巨額の借入金の存在に愕然とした。さらに、社内の雰囲気も、老舗の看板を守ろうとするばかりに、保守的な考えが蔓延。提供する商品は原価が高く、収益性の悪いものとなっていた。
まずは社内の保守的な雰囲気を一掃しなければと、髙見澤氏は、さまざまな改革を行った。
そのうちの一つが、峠の釜めしを変える提案だった。
峠の釜めしのレシピや食材の調達先は、「変えてはいけない」神聖不可侵なものとなっていた。髙見澤氏は、荻野屋の古い考え方や体質からの脱却を目指し、看板商品の製造販売方針の見直しを断行。取引先についても品質や価格を精査した。峠の釜めしの製造工程をつぶさに確認し、特定の工場だけでなく、国内外問わず、どこでも製造できるように変革を行った。ただ、古い体質の払拭は、借入金の劇的な減少にはつながらなかった。
また、改革を進めている最中の11年に東日本大震災が発生。
長野も群馬も地震被害そのものは大きくはなかったが、東北の津波被害に配慮するように、観光客が激減した。
「それで、12年に私が社長になった時、まずは借入金の額を減らすよう、専門知識を持った人に協力してもらいながら、荻野屋主導の改善計画を立て、改善していきました」。
髙見澤氏は、一緒になって状況を改善できる専門家を組織に招聘。遊休資産の売却、不採算店舗の閉鎖、利益体質の改善を急ピッチで進めていった。
「震災は、荻野屋の今後を考えるきっかけとなりました」。
これまでのように、観光に特化していては、自然災害などでお客様が来なくなった途端に立ちゆかなくなる。群馬や長野限定だったビジネスを、より広げていこうと決意した。そして17年、東京のGINZA SIXに常設店を構えた。
「銀座での評判は良く、売り上げも徐々に伸びていることに手応えを感じていました。やはり東京周辺を次の主軸において展開していこうと考え、次の準備をしていた矢先に、新型コロナウイルス感染症の蔓延が起きたのです」。



コロナ禍を乗り越える新たな取り組み
「常に人がいた銀座ですら人通りがない。これがいつまで続くかわからないと思いました」。
コロナ禍で客足が途絶えた20年から今までを振り返り、髙見澤氏はこう語る。ただ、旅行や外食需要は減ったものの、幸いにして、弁当の需要は増えていた。髙見澤氏は、周辺地域スーパーや量販店などに弁当販売の協力を依頼し、売り上げを確保。
ほかに、イベントや催事などでの取り引きも増やしていった。
繁忙期のピーク時と緊急事態宣言が重なり、20年の4〜6月には売り上げが対前年比8割減になった月もあった。だが、9月以降には政府主導のGo toトラベル事業の需要と、コロナ以前から決まっていたアニメとのコラボによって、一気に売り上げと利益を取り戻した。
「21 年は、年始にコロナ感染の第3波が重なり、ドライブイン事業などの観光に関する部門は、年初から厳しい状況が続きました。一方で峠の釜めしのイベント販売など、卸売関係は好調でした。それに支えられてここ数カ月の数字は19年よりも良くなってきています」。
21年3月、コロナ禍の最中ではあるが、JR有楽町駅の高架下に、イートイン併設型の新店舗「荻野屋 弦げん」をオープン。
弁当類の販売だけでなく、立飲みスペースを併設し、夕方からは群馬と長野の食材を生かしたお惣菜なども提供。峠の釜めしの“具”だけをお酒のつまみとする「峠の釜めしのアタマ」など、荻野屋ならではの強みを活かした店になっている。
03年に髙見澤氏が入社してからも、荻野屋にはさまざまなピンチが訪れた。だが、そのピンチをチャンスへと変えるべく、峠の釜めしの製造工程の見直しや海外販売、消費期限の問題から出荷できなかった遠方の催事への出店や実演販売など、新しい取り組みに挑戦し続けた。
「そうすることで経営風土は変わるはずだと信じていました。
荻野屋は、時代に合わせて挑戦し、チャンスをつかみ、常に変わってきたんです」。
時代の変化を感じながら、事業の在り方を変えるからこそ、会社は生き残る——。老舗荻野屋は、また新たな挑戦へとその歩みを進めている。



株式会社荻野屋 代表取締役社長 髙見澤志和氏


Company Profile
株式会社荻野屋
所在地 群馬県安中市松井田町横川399
T E L 027-395-2311
創業 1885年
資本金 1000万円
従業員数 390名
https://www.oginoya.co.jp/

Profile
1976年群馬県生まれ。六代目。2000年、慶應義塾大学法学部卒業。03 年、父の急逝を受け、後継者として荻野屋に入社。専務取締役を経て、12 年に代表取締役社長に就任。社内改革を推進するとともに、新商品の開発、首都圏をターゲットにした新規事業を展開。18 年、同大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。伝統を踏襲しながらも、新しい価値提供を目指し挑戦している

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