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製造 × 後継者による事業革新
顧客の信頼に応え、顧客から選ばれる企業に

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かまぼこ店として創業後、かまぼこの生産を自動化する機械の発明を機に食品加工機メーカーとして成長してきたヤナギヤ。特に、カニカマ製造機の世界シェアは70%で20 カ国に輸出され、他社を寄せ付けない優位性を持つ。現在は豆腐や海苔の加工機械、化粧品や医薬品分野にも進出し、着々と実績をあげる。同社三代目の代表取締役社長、柳屋芳雄氏に話を聞いた。

24歳で事業継承経営は崖っぷち

株式会社ヤナギヤの創業は1916(大正5)年。宇部市で父親が営むかまぼこ店を柳屋元助が継承したことに始まる。手作業のかまぼこづくりのなかでも特に効率が悪く、重労働だった練りの作業を機械化するため、元助氏は魚のすり身の電動練り機を開発。以後、かまぼこなどの練り製品の加工機を次々に開発していった。昭和に入り、1932年には柳屋鉄工所を開業し、水産加工機械の製作・販売を本格化。1950年には株式会社を設立し、1957年に元助氏が逝去してからも息子の幸雄氏が社長に就任し、機械メーカーとしての地歩を着々と固めていった。現社長で三代目の柳屋芳雄社長が幸雄氏から経営を引き継いだのは1975年。大学卒業後、地元のかまぼこ製造会社での修行を経て、社長に就任したのは24歳のときだった。この時点で、経営は自転車操業。会社はつぶれそうな状況だったという。「ピンチはチャンスというが、ピンチはピンチでしかない。ピンチに陥る前に対策をとることが肝心」と柳屋氏は言う。


社長就任後、生き残っていくため、〝ジャングルでサバイバル〞するかのごとく日々を送ってきた中で得た教訓だ。この時期、社内の会議では「売れない理由」を並べ立てるばかり。このままでは何も解決しない。「売れる理由」を見つけ、どうしたらもっと売れるか、対策をとるために柳屋氏は営業担当者らとともに客先を訪ねる全国行脚を開始した。顧客から聞き取った価格、メンテナンス、機械の性能に対する不満や問題点を自社に持ち帰り、一つひとつ改善。同時に社員の意識改革に着手した。できない、売れない理由をあげつらう後ろ向きな思考ではなく、上手くいっていることに着目し、角度を変えてもっと良い方へ変えてゆく前向きな思考への意識転換を図っていったのだ。社員の意識が変われば、ものづくりの姿勢も変わる。変化を恐れるのではなく、変化に対してどのように対応していくか。10年後、「どうなるか」ではなく「どうなりたいか」を考え、行動できる企業へと改革を進めていった。


会社の窮地を救ったカニカマ製造機のヒット

機械メーカーとして同社のエポックとなったのがカニカマ製造機の開発だ。日本で「カニカマ」が誕生したのは1970年代半ば。カニのような食感を安価に味わえる新感覚のかまぼこの登場にいち早く注目した柳屋氏は、製造機の開発を社内に命じた。柳屋氏の社長就任時、同社の売上高の90%は元助氏の時代から続くかまぼこ製造機であった。「かまぼこだけにしがみついているわけにはいかない」という危機感が、カニカマ製造機の開発に柳屋氏を向かわせた。1979年にカニカマ製造機が完成すると、全国的なカニカマ生産の増大とともに製造機の売れゆきも伸び、79年度は3台、80年度は9台、81年度は22台に。81年度には約9千万円の純利益を上げるまでとなり、カニカマ製造機のヒットが苦境にあった同社を救った。同社ではこの利益を新製品の研究に投入し、1982年には、真空状態で原料を高速処理する真空式細断撹拌混合装置「ボールカッター」を開発。



カニカマ製造機とボールカッターを連動させることで、原料処理から生産までのライン化を実現する。このカニカマ製造ラインの構築は、やがて同社製品の海外への拡販を後押しする。なぜなら、発売当初こそ、日本での生産輸出がメインだったカニカマは、国内原材料の減少・高騰などにより、次第に海外での現地生産が増加。日本での生産量は5・5万トンと横ばいが続くなか、世界の生産量はいまや年間約60万トンに達している。同社では1982年に、カニカマ製造機の海外輸出をスタートしており、世界のカニカマ人気の上昇ととも海外への販路を広げ、現在は300~400台のカニカマ製造機を出荷。世界シェア70%を誇る。名実ともにカニカマ製造機のトップメーカーの同社だが、柳屋氏は「マーケットが狭く、他のメーカーが入ってこないだけ」と、いたって謙虚だ。「原料のスケソウダラの生産量は決まっており、それに伴いカニカマの生産も制限されます。こうした状況下で、機械が永遠に売れ続けるわけではありません。もっといろんな業界に出ていく必要がありました。」1980年代後半、同社では、機械メーカーとして培った技術を練り製品以外の食品に応用。


豆腐、海苔、和菓子などの他の食品分野への進出を果たしていく。絹豆腐の連続生産設備、豆乳の搾り機や豆乳プラント、おにぎりに巻く海苔の自動伸ばし火入れ機など、業界や製法を研究し、次々に異分野の食品加工マシンを開発。中には、大手企業の依頼を受け、同社が製造した世界最大の生産ラインが国内で稼働しているケースもある。「次の何かがないと不安。だから、打てる球を増やしてきました」と柳屋氏は言う。金平糖のように突起物を増やして、同社が「できること」の領域を広げていったのだ。現在、カニカマ機械が同社の売り上げに占める割合は2割にすぎない。食品以外のメーカーからの相談や問い合せも増え、ペットフード、トイレの洗浄剤、化粧品、医薬品など、多岐にわたる業界の加工機械の製造へとフィールドを広げている。

信頼が増えれば売り上げは増える

同社で製作する機械のほとんどはオーダーメイドだ。コスト削減、環境改善、効率化など、どんな客先にも必ず克服・解決したい課題がある。同社では、顧客の要望にしっかりと耳を傾け、課題解決のために知恵を絞る。「できません」ではなく「何ができるか」を顧客と一緒に考え、探すのが同社の一貫したものづくりの姿勢だ。相談されやすい会社であるために、問合せや相談の窓口を一本化してわかりやすくするとともに、電話の受け方一つもおろそかにしない。顧客の要望にとことん付き合い、「では、どうしたら解決するか」を追求することで、顧客が望む以上の独創的な機械を創り出してきた。



「グローバルニッチは言い換えれば、隙間産業ということ。ビッグビジネスではないからこそ、お客さまが困っていることを見つけ、相談にのり、何が問題か、何ができるか、解決策をともに考えています」と柳屋氏。ニーズを掘り起こし、個々の課題を自社のこととして対応することで社員一人ひとりの「生み出す力」は自ずと鍛えられ、技術の向上、知識の蓄積につながる。やがてそれは、何にでも対応できる開発力を持つ会社としての認知を広め、「困ったときにはヤナギヤに相談すれば、解決策が見つかる」と頼られる企業として同社の信頼を高めていった。メンテナンスにおいても、機械の寿命が終わるまで稼働できるように世界中の販売先へ直接出向く。売りっぱなしにせず、アフターサービスにも責任を持つ。



「売り上げは、顧客からの信頼の数字。信頼が増えれば売り上げは増える」と柳屋氏は言う。企業規模は小さくても、下請けではなく独自性のあるメーカーとして価格決定権を持ち、〝選ばれる企業〞として存在感を高めてきた自負がにじむ。顧客からの依頼や相談が絶えず、規模の大小や難易度に関わらず広く対応できる技術開発力が同社の強みだ。顧客が困っていることに応える。この姿勢はゆるぎない。同社の機械を納めた120社が被災した2011年の東日本大震災では、「とにかく早く仕事を始めたい」という納入先の声に、機械の再購入より安価な修理を提案。被災地で、あるいは、持ち帰ることができる機械は宇部市の本社工場まで持ち帰り、泥やサビを落とし、すべての部品を一度バラして修理を行った。一時は工場内が修理の機械であふれ、夏場は機械に付着した泥や汚水の臭いとの闘い。それでも被災した納入先の一刻も早い復活に向け、修理に専念した。


機械が再稼働した食品メーカーとは、ともに試練を乗り越えたきずなで結ばれ、今も良好な取引が続いている。同社が〝選ばれる企業〞である理由は、こうした信頼の積み重ねから生まれていることが分かる。柳屋氏自身も自社の社員に対する信頼は厚い。「社長が抱え込まず、社員に任せることにしています。その方がわたし自身もストレスがたまりませんから」と明快だ。


株式会社ヤナギヤ
代表取締役社長 柳屋芳雄氏

1950 年、山口県宇部市生まれ。日本大学経済学部卒業後、ヤマサ蒲鉾を経て、1973 年4 月、家業の柳屋鉄工所(現ヤナギヤ)に入社。1974 年5 月、代表取締役社長に就任。現在に至る。

Company Profi le
株式会社ヤナギヤ

設立 1950年12月
従業員数 161名(男性145名:女性16名)
https://ube-yanagiya.co.jp/

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