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製造 × 後継者による事業革新 創業200年以上受け継がれたのれんの重み
老舗の精神性を次代につなぐ

株式会社船橋屋

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老舗の多くは嫡男が事業を継ぐ。しかし嫡男にその資質なし、となればその限りではない。先祖代々から続く老舗を守るためにあえて実子を外し、血の繋がらない養子を後継者とすることもある。江戸時代から200年以上続く老舗のくず餅店、船橋屋の前社長||今は会長となった渡辺孝至氏も、かつて先々代(六代目)から請われ、養子となり、後継者となった人物。義理の父親である六代目から何を受け継ぎ、それを息子である現社長にいかに受け渡したのか。渡辺氏に伺った。

江戸時代に誕生したくず餅屋の老舗

東京の下町、亀戸天神のすぐ脇に店を構える船橋屋は、江戸時代から続くくず餅の老舗。創業は1805(文化2)年、小麦の産地として名高い下総国(千葉県北部)に生を受けた勘助が、亀戸に店を開いたのが起こりだ。船橋屋の餅は瞬く間に人気を呼び、江戸中に名を馳せた。

代々続く老舗くず餅の味は、芥川龍之介や永井荷風をはじめとする多くの文人をも魅了した。なかでも吉川英治は大変な入れ込みようで、船橋屋の大看板を手掛け、現在も本店の喫茶ルームで目にすることができる。147年目にあたる1952(昭和27)年に有限会社化。1968(昭和43)年には株式会社へ改組している。

現在は八代目当主の渡辺雅司氏(以下、雅司氏)が社長を務める。2008年に実父の渡辺孝至氏(以下、渡辺氏)の跡を継いだ。渡辺氏は一線を退き、現在は会長として船橋屋を支えている。

「社長から求められたら意見を言いますが、私から経営に口をはさむことはありません。今の私の役割は社内の雰囲気を明るくすること。社長という立場であれば社員に対して厳しく接しなければならない場面もありますが、会長の私はそうでなくてもいい。こまめに社員たちに話しかけ、会話を楽しんでいます」。

その他、亀戸天神の氏子総代会長や税務署協力団体の顧問など地域との関係づくりを行っているという。

六代目から受けた「三方よし」の薫陶

七代目の渡辺氏は先々代の六代目の婿養子。大学卒業後、大和証券に入社、実家に近い亀戸支店で営業職についていた。入社1年目、何の知識も経験もない中で、渡辺氏は営業成績を上げようと工夫を凝らす。毎朝7時に出社すると、税務署の所得番付を見て、お客様になりそうな先を決め、無料の株式新聞を配りに訪問することにした。その訪問先の一社が船橋屋だった。

毎朝、株式新聞を配りにくる渡辺氏は当時、船橋屋社内で「7時半の男」とあだ名されるほど有名になっていたという。そんな渡辺氏の熱心な姿に興味を持ってくれたのが六代目だった。

ある日、突然「毎朝、よく頑張ってるなぁ。今度、飲みに行こう」と誘われた。渡辺氏の誠実さが六代目の心を捉えたのだろう。会う機会は次第に増えていき、すぐに親交を深めていった。そしてある日「相談があるから」と呼ばれた席で「じつは後継者がいないんだよ。やってくれないか」と打ち明けられた。本当は長男がいるのだが経営者としての資質がない、と六代目は判断したというのだ。

慕っていた相手からの真剣な頼み。ここまで見込まれたのなら養子でもいいから頑張ろうと渡辺氏は決断したという。1962年、六代目の次女と結婚する形で、渡辺氏は養子入り、船橋屋に入社した。

「ここでは全員が先輩。謙虚に言うことを聞いて、楽しく仕事をしよう。なにより六代目に喜んでもらえるような仕事をしようと誓いました。私にとってそれが六代目との"心の約束"です」。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」の"三方よし"は六代目の信条だった。「世間よし」に関してはこんなエピソードがある。

敗戦直後の焼け野原の中、水の中に浸かって残っていたくず餅の原料を見つけ出した六代目は、近所の日立製作所に掛け合って道具を借り、くず餅を作り、サッカリンの蜜をかけると、焼け出されてボロボロになった近所の人たちに無料で配って回った。「私たちも食べ物がありません。一緒にくず餅を食べて頑張りましょう」という六代目の声に長蛇の列が並んだという。

六代目は船橋屋を支えてきてくれた人たち全員を大切にしていた。こうした六代目のエピソードや思い出は、ことあるごとに現社長の雅司氏にも話して聞かせてきたという。

「ご縁のあった方を大切に。決して裏切らない。これは六代目の生き様そのものであり、それを私も受け継いできました」。

1980年、地元の金融機関の経営を立て直すため理事長を引き受けた六代目は、渡辺氏に七代目を譲る。この時に言われたことは今でも忘れられないと言う。

「君がやる以上は何も余計なことは言わない。でもね、初代から現在に至るまで、時代の荒波を越えて頑張ってきた結果、今、船橋屋があることは忘れちゃいけない。先人たちの積み重ねが今日の我々のもとにある。自分の成果だとは思っちゃいけない。謙虚に先祖を大事にしなさい。それと、八代目を作るのは君の大事な仕事だよ。今から後継者づくりを心掛けなさい」。













受け継がれていく先祖代々の思い

雅司氏が生まれた時から、いずれは八代目にしようと考えていた、と渡辺氏は言う。しかし、そんな思いを本人に言葉で伝えたことは一度もなかった。一方の雅司氏も自らの意思を示すことなく、大学卒業後は都市銀行に入行する。そんな雅司氏が継ぐ決意をしたきっかけの一つは、六代目の最期の看取りだった。

病床で意識朦朧となっていた六代目が、うわ言で口にしたのは、かなり以前に亡くなっていた実子の名前。実の息子を後継者にしてやれなかった六代目の辛さと、結果として実子を押しのける形で船橋屋を継いだ父が背負う老舗の重みを痛感したという。

以前、弊誌インタビューで雅司氏は「祖父や父の、老舗を継承する覚悟と背負う十字架の上に、今の自分があると思った」と語っている。1993年、雅司氏は銀行を退職し船橋屋に入社。バブル崩壊後に多くの企業が倒産、廃業したのを銀行員として間近に見てきた雅司氏にとって、老舗といえどもこのままでは生き残れないと考えていたようだ。





















効率化や業務改善を進めようという雅司氏の気持ちはわかるものの、急激に改革を進めれば現場は混乱する。雅司氏と渡辺氏の考え方は多くの場合、ぶつかった。最終的には当時、社長だった渡辺氏の判断の前に、雅司氏が折れる、というやりとりが度々繰り返されたという。しかし、そんな中で大きな変化があった。

雅司氏が提案したISO取得に、「一から導入するには手間も時間もかかりすぎる」と渡辺氏は猛反対した。老舗だけに古い気質の人間も多く、導入するなら辞めるという社員まで現れた。しかし、いつもは引き下がる雅司氏がISOに関してだけは一歩も引かなかったのだ。当時の雅司氏の姿を渡辺氏はこう振り返る。

「革新しないと先行きはないと信じていました。葛藤もあったと思います。悩みに悩んで、夜も寝られない様子でした」。

そんな雅司氏の姿を見て、渡辺氏は一転、考えを改める。船橋屋を大切にしようという思いは同じだ。ならば、認めてあげてもいいのではないか。彼がやりたいことを応援したい、と。その意を伝えると、雅司氏は「ありがとう」と渡辺氏に告げてきた。共に働きながら、初めて聞く言葉だった。苦労もあったが、ISO導入の効果は絶大だった。以前は品質にもばらつきが目立ったが、現在は悪い出来のくず餅はほとんど出てこない。売り上げも伸びてきており、くず餅を基軸にした新しい商品の開発も行っている。



















また、雅司氏が社長になってからは新卒採用にも力を入れるようになった。数人の採用枠に多い年は1万人以上の応募者が殺到するほど、学生から人気の企業となっているという。ISO導入の着手とほぼ時期を同じくして、雅司氏は八代目に就任した。就任式は二人きり、先祖代々が眠るお寺で挙げた。

「ISOの件で本人にもある程度の自信がついたんだろうと思います。お墓の前で手を合わせて『継ぐことになりました』と報告しました」。

船橋屋の歴史は今年で213年。その歴史の中には様々な人々の想いが凝縮されている。当主、従業員、お客様、関わったすべての人々の想い。それを大切にしてのれんを守っていってほしいと七代目、渡辺氏は強く語った。























株式会社船橋屋 会長(七代目当主)渡辺孝至氏

1937年生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。62年に株式会社船橋屋入社。
80年代表取締役社長就任、船橋屋7代目当主。2008年に息子の雅司
氏に事業承継し一線を退く。



COMPANY PROFILE
本社 東京都江東区亀戸3-2-14
設立 1952年10月(創業1805年/文化2年)
TEL 03-3681-2784
資本金 2000万円
従業員数 180名
http://www.funabashiya.co.jp/

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