経営コラム

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製造 × 後継者による事業革新 後継者に託す先代の想い
拡大路線を見直し利益率を改善した業界トップ印章店

株式会社大谷

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全国に135店舗を展開し、印章業界のトップを走り続ける株式会社大谷。多店舗化は難しいといわれていた業界の常識を覆した同社の現会長、大谷勝彦氏は、創業当初から確信をもって業績を伸ばしてきた。数々の経営賞も受賞、障がい者雇用にも積極的で優良企業と評価されていた同社だったが、後継者選びだけは困難を極めた。社内外に人材を求めたものの該当者が見つからない。そんな中、立候補してきたのが、まったく別の業界でキャリアを積んでいた次女の尚子氏。親子間での衝突を繰り返しながらも、父の時代の業績を超え、さらに父の夢を叶えようとしているという。

不可能を可能にした業界トップへの道

株式会社大谷の原点は、1951年。大谷勝彦会長の母である大谷キミ氏が新潟市東堀の長屋で開業したはんこ屋に遡る。

長屋で受注をし、職人に製作を依頼して、出来上がったらお客様に納品する。営業活動が中心だったこともあり、当時は特定の店舗を持たなかった。そんな母の姿を見て育った大谷氏は中学を卒業した後、盛岡の印章店に弟子入りし、はんこの手彫り技術を身につけて帰郷。母の後を継いだ。

新潟市東堀に3・5坪の小さな店舗を借り、資本金50万円で株式会社大谷印房を設立。母が行なったように受注してから職人に依頼するのではなく、受注後、自ら製作する店舗型へとシフトした。1966年のことだった。3年後には、商号を現在の株式会社大谷に変更している。

設立当初から「10年後には新潟県で一番のはんこ屋になる」との決意だったという。そのために推し進めたのが、多店舗展開だった。

「しかし、社員も家族も、みんな反対でした。当時ははんこ屋は個人経営、一店舗経営が一般的。東京や大阪などであればいざ知らず、新潟で『そんなことが出来るわけがない』との声がほとんど。おそらく、業界で多店舗化を取り入れたのは初めてでしたから当然です。しかし私には出来るはずだとの確信がありました」。

折しも、時代は高度経済成長期に突入。同社が多店舗展開の出店先に、各地域で進出が相次いでいたショッピングセンターを選んだのには、そうした背景もあった。はんこの需要が増大していくと、1988年には工場を新設して機械化も進めた。こうして同社は新潟どころか、日本一の売り上げを誇るまでに成長していった。

ちょうどこの頃に制定した3つの経営理念からは、大谷氏の並々ならぬ決意がうかがえる。「お客様に喜びと感動と満足を与え続ける」、「働きがいのある職場作りと社員の幸福をめざす」、そして「社会福祉に貢献する集団を作る」。とりわけ社会福祉に貢献するというのは大谷氏のかねてからの夢だという。

「そもそも、手に職を付けるという意味で印章業界の職人には障がい者の方が多いという特徴があります。多店舗化の影響で受注が増えるにつれ、製造部門の職人を増やす必要があり、そのため、積極的に障がい者の方を雇用してきました」。

現在、同社の正社員の約50名のうち、障がい者採用は半数近くの20名ほどだという。
















病気をきっかけに後継者に委ねた

業界トップシェアを成し遂げた大谷氏の悩みの種が後継者問題だった。子どもたちは三姉妹。「女の子に継がせるという発想は全くなかった」と大谷氏は述懐する。社員のなかから後継者を探したが、一代で会社を大きく育て上げた大谷氏に代わる人材はいなかった。

1998年には当時としては珍しい公募という形で後継者候補を募った。その中から大企業出身者を採用、次期社長候補として迎え入れたものの成果を上げられず、わずか4年で頓挫。困り果てた大谷氏の前に現れたのが、東京のデザイン事務所に勤めていた次女の尚子氏だった。

当時の尚子氏は30代半ばで、それまでのキャリアを振り返り、もっとやれることがあるのではないか、と考えていたという。父親の会社の後継者問題については耳にしていたが、大谷氏が売却も視野に入れていると聞くと、迷いが生じた。子どもの頃から身近にあった会社が、それではもったいないのではないか。それならば、自分が入社して、何か面白いことをやろう。もっとよい会社にしよう。そうした決意を抱えて、まったくの畑違いだった同社に入社した。

格好の後継者を得た大谷氏は、尚子氏に社長業を継がせるべく、まずは経営実務を覚えさえ、経営者の会合などに参加させようと目論んだ。ところが、尚子氏の関心は全く違うところにあった。「社長になる」ことよりも、「会社をもっとよくしよう」ということに意識が向いていたのだ。

大谷氏の言うことにも従わず、まずは現場のことが知りたいと、工場の各部門を回り、続いて各地の販売店に赴いて販売員の話に耳を傾けるという活動を実践し始めた。両者はことあるごとに衝突を繰り返した。

「親子間ですから、揉めるのは当たり前。いずれにしても入社後、5年ほどで引き継ぐつもりでいました」。

会社の状況をさまざまな観点で勘案した結果、5年の予定を大幅に繰り上げ2年後の2012年、尚子氏が代表取締役社長となり、自らは代表取締役会長に就任した。その後もしばらく二人の衝突は続いたが、そんな関係が大きく変わることになったのが、翌13年7月のことだった。大谷氏が病気で倒れたのだ。

大谷氏が業務に携われない間、尚子氏は手掛けていた現場改革をさらに推進。来店したお客様の目のつきやすい場所にPOPを設置したり、売り上げのよい店舗の販売員のトークを他店舗でも使うよう周知したり、売れるノウハウを全店舗で共有していった。さらに、インターネット販売に乗り出す一方、不採算店舗の撤退にも着手。現場をつぶさに見てきた尚子氏の改革の成果は、大幅な利益の改善となって現れた。

「私は業界でいち早く多店舗化に乗り出しました。拡大路線の延長線上でしか物事を考えることが出来ません。それに比べ、現社長は現代的な感覚で、業務の質を改善した。売り上げ自体はここ数年、28億円前後で推移していますが、私の時代は3億円ほどがせいぜいだった経常利益が、現体制下では5億円近くに増えています」。

この結果を前にして、大谷氏は尚子氏に口出しするのをやめた。もう、娘に任せよう。そう思うきっかけとなった病気に、今では感謝の気持ちさえあるという。その後まもなく大谷氏は自身の代表権を返上した。












代表取締役社長 大谷 尚子 氏

かねてから夢だった福祉施設を衝突を重ねた親子で実現

社長を退いた大谷氏は現在、福祉事業に軸足を置いている。創業当初から障がい者の積極的な雇用に努め、その労働環境を整えてきたほか、1993年に新潟県、新潟市、地元上場企業と第三セクターで設立した重度障害者多数雇用企業「株式会社サンバーストにいがた」の筆頭株主になるなど、同社の経営理念にある「社会福祉に貢献する集団を作る」を着々と実行。

改革を続けた尚子氏も、経営理念は変えずに尊重している。今年1月に立ち上げ、大谷氏が理事長を務める「社会福祉法人大谷ゆめみらい」は、長年培ってきた障がい者雇用の取り組みとノウハウを用いて、障がい者にさらに幅広い活躍の場を提供することを目的としたもの。働きたい気持ちがあるのに通常の事業所では雇用されない障がい者へ就労支援を行っていく。

かつて大谷氏が、障がいをもった子どもを雇用する際、親から「この子を頼みます」と託された時から、いつか実現させたいと考えていた夢が形になったものだ。社会福祉法人の設立には、大谷氏の夢に同調する尚子氏も奔走してくれた。経営の方針をめぐって度々衝突した尚子氏だったが、大谷氏の採用してきた従業員には全幅の信頼を寄せている。

彼らはいずれも、社員を大切にしようという大谷氏を心から信頼しており、お客様に喜んでいただこうという気持ちに溢れていた。彼らには、障がい者を一人の労働者として受け入れ、育てる土壌があった。大谷氏の夢である福祉施設を実現するのに、これ以上のリソースはない。社会福祉法人設立には、こうした従業員の存在が欠かせなかったのである。

理念を引き継いだ尚子氏の尽力に「ありがたい」と顔をほころばせる大谷氏も、福祉事業に対する熱意を語った。

「私もかつて、医者から長く生きられないと匙を投げられた大病に罹った過去があります。ですから、社会的弱者がどんなにつらい思いをしているか理解しているつもりです。この施設で、一人でも多くの障がい者に社会生活に適応できる人材に育ってもらいたいと思っています」。

そこには、健常者と同じように、障がい者にも働きがいや生きがいを感じられるようにしたいという願いが込められている。度重なる衝突を乗り越えた社長親子の目線は今、同じ方向を向いている。

















 








 株式会社大谷
 取締役会長 大谷 勝彦 氏

 1942年、新潟生まれ。中学を卒業後、
 岩手県盛岡市の印章店に弟子入り。
 1966年に株式会社大谷印房を設立。
 1988年、新潟市亀田工業団地に
 本社・工場を新設。2012年に次女の
 尚子氏に社長を譲り、現在に至る。


Company Profile
本社 新潟県新潟市江南区亀田工業団地1-3-5
設立 1966年(創立1951年)
TEL 025-382-0066
資本金 3000万円
従業員数 600名
http://www.p-otani.co.jp/

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