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建築・建設・工事 × 後継者による事業革新 逆風のなか承継した産廃処理会社を 先進的な環境ビジネス企業に育て上げる
創業者の想いを活かす一心で 走り続けた“お試し社長”の大逆転

石坂産業株式会社

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「所沢のジャンヌ・ダルク」の異名には、圧倒的な劣勢を奇跡のごとくひっくり返した女性、という意味も含むのだろう。石坂典子社長が30歳で石坂産業株式会社の“お試し社長”となった時、同社は確かに四面楚歌の中にあった。矢継ぎ早の改革で、産業廃棄物処理業者のイメージを一新し、里山を再生させ、同氏は今や国内の環境問題を論じる際に欠かせない存在となった。とはいえ、石坂社長は特別な後継者教育を受けていたわけではない。いつ、どのように「継ぐ覚悟」ができたのかをうかがった。

「愛される企業」に成長し父の夢を守る

高度経済成長期の最中の1967年。先代の石坂好男氏は、妻子に何不自由ない暮らしをさせたいとの想いから創業を決意し、ダンプカー一台の土砂処理業、石坂組(後に改名)を立ち上げた。大量生産、大量消費の時代にあって、処理すべき廃材には事欠かなかった。

しかし当時から、東京湾の埋め立てに自ら運んだ廃材が使われるのを眺めつつ、「もったいない」と感じていたという。使えるものまで捨ててしまう状態はいつまでも続かない。いつか、ゴミをゴミのまま廃棄しない時代が来るという確信があった。

事業を広げ処理技術を磨きながら、やがて「工場を構える」という最初の夢に着手した。選んだのは、埼玉県三芳町・所沢市・川越市・狭山市にまたがる、広大なくぬぎ山地区だ。交通の便がよく、土地代も手頃な好立地で“産廃銀座”と称されるほど多くの産廃処理業者が集まった。

86年、商号変更と同時に各種プラント建設を開始。97年には15億円の費用をかけ、ダイオキシンを発生させない最新式焼却炉を導入した。当時年商20数億円の企業にとっては乾坤一擲の投資だったが、これも先代の先進性の現れといえる。

状況が急転したのは2年後の99年。「所沢市の野菜から高濃度のダイオキシンが検出された」との報道(後に誤報と判明)がなされ、それに続くマスコミの反ダイオキシンキャンペーンにより、付近一帯の農家はことごとくダメージを受けた。

「ゴミ処理業者のせいだ」。最初テレビ局に向けられた地元農家の怒りは、いつしか、周辺のあちこちから立ち上る、焼却炉の煙に集中する。石坂産業は他社に先駆けて唯一ダイオキシン対策を済ませていたが、最新で高い煙突を持つ焼却炉がひと際目立ち、逆に地元の批判を集めることとなった。同業者は行政の勧めを受け、続々と立ち退いていったから尚更だ。

2001年には石坂産業の撤退・廃業を求める行政訴訟が起こされ、社屋前には反対運動を行う人々の手で監視小屋が設けられた。出入りする社員や取引先の様子、わずかな白煙を公害の証拠とばかりカメラに収められた。

「なぜ真実がここまで伝わらないのか」。

二代目の石坂社長にとっても憤りを感じる事態だった。後を継ぐなど元より考えたこともなかったが、幼い頃から社員たちに可愛がられて育ち、家業への愛着はずっと持ち続けていた。入社後は特に、産廃処理という事業の社会的価値を実感し、社会になくてはならない仕事というプライドを抱いてきたが「ダイオキシンなど出していないのに、“汚いゴミ屋”のイメージはこれほど根強いのか」とがく然とした。

「もう、焼却(処理)は止めましょう」。

02年3月、先代と2人だけになった時、石坂社長は意を決して話した。売り上げの7割を占める焼却処理を、捨てられる訳がなかったが、先代の「世の中に必要とされない仕事をしても、仕方ないよな」という、つぶやくような言葉に後押しされた。

父は強いリーダーシップで全社を率い、誰よりもこの仕事に情熱を燃やす、尊敬すべき経営者だった。誇りを持って取り組んできた事業だからこそ、「地域に必要とされる存在」として受け入れられたかったのだ。その父が今、こんなに弱気になっている。気づいたときには、「私を社長にしてください!」と口走っていた。

自分が、父の行ってきたことを皆に広め、この会社を、社会から愛される存在にしてみせる。今より悪い状況にはなるはずがないという思いに駆られていた。

「経営者に必要なものは諦めない、負けないという情熱なんです。もう自分しかいないと思ったんですよ」。

「女にできる仕事じゃない!」と言下に否定した先代も、さぞ面食らったことだろう。手伝わせていたとはいえ娘が、いきなり危機にある会社を継ぐと言い出したのだ。しかし1週間後、先代は石坂社長に改めてこう言った。「代表権のない取締役社長だ。1年で実績を出さなければ解任する」。“お試し”社長の誕生だった。


















「上っ面」で終わらせない会社のイメージ改革

16年後の現在、以前は管理されず、うっそうとしていた森は、敷地のほとんどが陽の射し込む美しい里山に生まれ変わり、希少種であるニホンミツバチが飛び、ヤマユリの花が咲く。二年おきに開かれる夏祭りには、地域住民もこぞって参加するという。JHEP(注)で「AAA(最高)」の認証を受けたのは石坂産業の他は一社のみ。くぬぎの森は自然再生の成功例として世界中から見学者を集めている。

また、かつてゴミを野天に広げ社員が手で仕分けしていた工場も、整然とした全天候型総合プラントとなり、業界屈指の「減量化・リサイクル化率98%」実現の礎となった。もちろん整理・整頓・清掃の「3S」も行き届いている。どの社員も身だしなみは清潔で、礼儀正しい。受付には里山の草花が飾られ、女性社員が自社農園石坂ファームで収穫した旬の農作物で来客をもてなす。その心尽くしの対応は、ゴミを持ち込むトラック運転手たちにも好評で、経産省の「おもてなし経営企業選」にも選ばれた。

事業面では技術的に処理がより困難とされる、処理料金の高い建設関連の廃材に特化した。03年には、ISO14001、ISO9001、OHSAS18001(労働安全衛生)を早々に取得。大手ハウスメーカーを中心とした顧客群を構成、付加価値を高め、価格体系も刷新した。リーマンショックの翌年を除き、順調に拡大を続けた年商は、就任時からほぼ倍増している(17年8月期で51億3000万円)。

ダイオキシン訴訟への対応と同時に、これほどの改革を実行するのは、並大抵のことではなかった。産廃処理業は荒っぽい男の世界だった。当時、社員たちは世間一般の社会人教育をほとんど受けておらず、用具を整理整頓するという概念すらなかった。

石坂社長が新たな改革をしようとする度、ヘルメットをコンクリートに叩きつけるような激烈な反発を示し、石坂社長の頭越しに先代に話を通そうとする者も少なくなかった。しかし、やがて改革の成果が外部から高く評価されるようになると、社員の意識も代わり、意欲的に自らの業務の質を上げようとするようになった。

ダイオキシン排出の「無実」をアピールすべく、ホタルのビオトープを置き、周辺の清掃にも取り組んだが、これも地域住民の気持ちを変えるには不十分だった。じめじめと陽の射さない森は不法投棄を呼び、いくら清掃しても追いつかなかった。石坂社長はくぬぎの森全体に目を向け、伸びすぎた枝を払い、下草を刈り、落ち葉を掃く、里山の管理の必要性を悟った。























改革の最大の難関は先代だった。上っ面のみ繕うことを嫌う先代は、イメージアップを戦略とした石坂社長の提案を、何度となく否定した。なぜそれが必要か、論理に裏付けられた説得が必要だった。毎朝15分、そうしたコミュニケーションの時間とし、達成する期限を確約した。少しでもできていないことがあれば、すぐに「大きな口をたたきやがって。やると決めたら徹底的にやれ!」と、人前もはばからず叱咤された。石坂社長を叱ることで、社員にも「やれ」との意を強烈に伝えるという親心でもあったろう。

13年、「代表権は譲らない。死ぬまで現役だ」が口癖だった先代が、突然代表印を渡して寄こした。“お試し”社長就任から10年が経っていた。

かつて石坂社長は先代に、経営理念をつくってほしいと依頼していた。「謙虚な心、前向きな姿勢、そして努力と奉仕」と書かれたそれが、ようやく身にしみて理解できると感じ始めていた矢先の事業承継だった。

「なんで私の話を聞けないの!と思ってしまったら、何も実現しないんです。謙虚さがないとダメ。私が社長になったのは、父の想いを実現したかっただけだから、自分のことはひとまず脇に置くよう努めました。それが本当に勉強になった」。

一代で築きあげたものを、我が子とはいえ他の手に委ねるとはどれほどの決意なのか。連帯保証の書き換えをしながら、父の決意に身震いする想いだったと石坂社長は語る。もう相談する人はいない。これからは一人ですべてを担う。代表権の大きさを改めて感じたその瞬間が、石坂社長が真に「継ぐ覚悟」を固めたときだった。

< 継ぐ覚悟 >
何よりも「諦めない、負けない」という事業への情熱を持つ
創業者の想いと理念を尊重し、継ぐべきものと変えていくべきものを判断する
継ぐからには、自分一人ですべてを担うという覚悟を固める

 石坂産業株式会社
 代表取締役 石坂典子氏

 Profile
 1972年東京都生まれ。高校卒業後、米国の大学に短期留学。
 92年、父親が創業した石坂産業株式会社に入社。
 2002年、社長就任。現在2児の母。
 13年、経済産業省の「おもてなし経営企業選」に選ばれる。





Company Profile
石坂産業株式会社
創立 1967年7月
住所 埼玉県入間郡三芳町上富緑1589-2
TEL 049-259-5800
資本金 5000万円
売上高 51億3000万円(2017年8月期)
従業員数 約175名(2018年1月)
https://ishizaka-group.co.jp

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